人生という劇場の観客席に、あなたはいない・・・。

今年も無事に12月30日の誕生日を迎えることができました。

 

素敵な素敵なお祝いのメッセージなど、本当にありがとうございます!

 

誰かのために自分の時間を割いて、一言でも祝福の言葉を伝えたいという行為に愛おしさを感じてならない。

 

今年も願っては叶わず、打ち拉がれた想いにかられた経験も何度もあった。

もしかしたら、そんなことの方が多かったかもしれません。

 

「いついつまでにこれがこうなってたらいいな・・・。」なんて青写真を思い描いても、できてないこともある。

悔しさとか、寂しさとか、刹那さとかって、いったいひとから何を奪っていくんでしょうね・・・。

 

ここにすでにあるものには目もくれず、手を差し伸べず、どこか遠くに見える一点の光の方向だけを見て一喜一憂しては心をすり減らしていく。

 

結局のところ、人生なんてもんは断片的にとらえると、「辛い」とか「悲しい」とか「寂しい」とか「厳しい」なんていう経験がほとんどなのかもしれない。

 

映画のフィルムをチョキンとカットして、一個一個見ていけばそんなネガティブな映像ばかりが写し出されるんだろう。

 

じゃぁ、人生という映画を編集することができるとして、そんなネガティブな映像たちを切り離していくとどうなるかって考えると、、、

ものすごくちゃちな内容極薄の短編映画にまとまってしまう。

 

俺の人生のことを言ってるので、必ずしもあなたに当てはまるかどうかは知らない。

 

ひとというのは、人生というのは、ひとつのパッケージで成り立っていると思う。

 

人生という一本のストーリーは、その劇場の観客席に自分はいない。

 

常に本人はスクリーンの中で光り輝いている。

 

でも、その輝きはある程度の距離をとって見ているひとたちにしか分からなかったりする。

だから、「辛い」「寂しい」んだよね。

 

ただし、その映画には脚本がない。

ストーリーは自分で自由に演じられるし、いつ終わらせてもいい。

 

 

俺のストーリーはまだまだこれからだけど、毎年歳を重ねるごとに思うのは、、、

観客が増えているかもしれないなってこと。

 

そして、その中の数人でも涙していたり、心から笑ってくれていたり、拍手をおくってくれているひともいるのが見えてくる。

 

そうなると、ちょっとしたコツが分かってくる。

ヒントが見えてくる。

 

「辛い」こと「悲しい」ことの断片を繋ぎ合わせていくことに、自分だけの意味付けができるようになってくる感覚。

 

幸いなことに、人生という映画を制作するのに才能は必要ない。

 

さぁ、クリスマスだとか大晦日だとか正月だとか、そんなこと関係なく、今すぐ続きを演じてみよう!

観客たちは、その続きを待っている。

 

 

 

ありがとう2016年!

今年もかけがえのない仲間と、二度とない時間を共有することができました。

愛してます。

心から愛と感謝をこめて。

 

 

 

 

Shin

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